1.いつだって届かない明日を夢見て

作曲 Southern 編曲 なんすい

 

今日も退屈な日だった。

退屈なのと、忙しいのを比較したら、今の自分は前者のほうが好みだ。
とはいっても限度はあるもので、あまりにもなんにもない日もなんか嫌になるというものだ。

そんなことを思ってたら時折忙しくメンタルがすり減る日もあったりする。
自分にとってちょうどいい日はあまり届くことがない。
ましてやそんな日々が毎日続くなんてことはありえないレベルだ。

でもそのちょうどいい日が毎日訪れることになったら、
どう過ごすか、どう稼ぐか、どんな食事をするか。
そんな夢を見ることはなぜか、やめられない。

明日はちょうどいい日になったりするのかな。
今の自分はそこに近づく努力をするつもりはないけれど、
だからこそ、たまに訪れるその日を夢見て眠りにつく。

Southern

 私の場合、編曲は、ひとの音楽である原曲を「自分事」になるまで反芻していくことから始まります。人それ自体や現象を理解しようと努力するのと同じように。原曲から想像・推論を膨らませ、最終的に自分自身にとってもままならないことだと思えるようになれば、「他人事」に終始しない誠実な編曲が出来るようになるんじゃないかと考えています。

 本曲の編曲では、原曲が持っていたロマンとファンタジーをより自由に解放し、同時に私自身のための祈りの音楽として、新たないくつかのモチーフを織り交ぜながら曲想を発展させたものになりました。今回のコンサートのプログラムの中では最もキャッチーかつ、最も率直にイメージを膨らませられる一曲となったと思います。

 私たちの音楽が、素晴らしい奏者方の手によってただならぬ音響となり、それが客席へと到達した瞬間、必ずや私たちの音楽はあなたたちのものになることでしょう。

なんすい

 

 

2.弦楽四重奏のための「絶えるものたちの詠唱」

作曲 冨田悠暉

 

昔「巡るものたちの輪舞曲」というピアノ曲を作り、「名古屋作曲の会」で初演しました。この曲は、生まれたのち死へ向かって進み続ける命が、巡る季節とともに新たな命を育み、またも死へ向かいながら今を生きる命を紡ぎ続ける様を描いた曲です。とても内省的でありつつ人類賛歌的でもあり、今でもお気に入りの曲となっています。

しかし、現実の命はこの曲で描いたように紡がれるばかりではありません。

一旦生まれた命は常に終わりに向かい続けます。だからこそ、”終わらない”ためには有限の命を無限の円環に乗せて繋ぎ続けるしかありません。これは強迫観念です。そうして繋がれてきた命が今ここにあるからこそ、僕たちは”終わらせない”ために再び命を紡ぎ、新たな終わりを始めなければなりません。

もしそうであれば、僕たちは絶対的に不自由です。この軛を解き放つことは、実質的にはできませんが、少なくとも抗うことはできます。「終わりゆく命を新たに始める」ことを拒絶すればいいのです。子どもを生まない生き方は、今やポピュラーになりつつあります。無論、それすらも自由な生き方では全くないのですが――。

こうして、無限の円環は個人の意志によって絶たれることができます。そこに見えるのは自由なのか不自由なのか、充溢なのか空虚なのか、希望なのか絶望なのか、この曲はそういった楽曲です。

冨田悠暉

 

3.おもしろくない20世紀少年

作曲 ゆお 編曲 なんすい

この曲は、はじめ故郷というテーマで書いたものでした。ただ、途中まで作ってオチが極めて弱いことに気づいたために、パッと思いついた二十世紀少年的なフレーズに全てを託すという無謀な賭けに出た作品です。賭けというか、賭ける前に負けが確定しているので賭けにすら出れていません。カジノを前にして、ポーカーのルールが分からずただ呆然と立ち尽くしているおっさんがいたらそれは私です。
曲のテーマが急遽二十世紀少年になってしまったので、それに合わせるために、故郷をテーマに書いていたものを二十世紀少年のあらすじをなぞるように書き換えました。平和な日常が段々壊れていくという、二十世紀少年の中で一番好きなエッセンスをほんのわずかでも嗅ぎとっていただければ幸いです。
またこの時、私は「ノーガードで生きる」を密かに目標として掲げていたので、その信条もこの曲に反映されたりしていました。ノーガードって、現実味は薄いですが、幻想郷のように美しいですよね。

最後に。この曲は会長であるなんすいさんに編曲していただいたので、私が作ったものとは様子が大分変わっています。ただ、素敵な編曲をしてくださったなんすいさんに最大限の感謝を込めて。

ゆお

 提出された「おもしろくない20世紀少年」の原曲は、客観的に⾔って荒唐無稽、展開も構造も秩序⽴っていなければ、 芸術的な狙いも一切無いものでした。というのも、作曲者のゆおさんは作曲の素養を全く持っていなかったどころか、今回の作曲がゆおさんにとって⼈⽣初めての作曲体験だったのです。 

 一方で、私が彼女の非凡を感じたのは、⼿なりで書き殴ったものを⼀切の取り繕い無しに提出してしまうという、真の無垢でした。その徹底のために、提出された音楽は図らずも現代音楽的な魅⼒を醸すことに成功していたのです。すなわち「おもしろくない20世紀少年」はそれ⾃体の無垢こそが唯⼀の価値であり、敢えて全く⼿直しを受けずにそのまま演奏されることこそ最も望ましいと考えられます。それでもやはり編曲を施さるる必要があったのは……曲がひとえに「⼤義」を⽋いていたからです。

 これを説明するためには、そもそも最先端のコンテンポラリーの界隈において、もはや何をもが芸術的価値を持ち得るという現状を確認しなければなりません。感覚的に美しいことよりも論理的であることが評価されるようになり、さらには偶然の交錯、環境音、ノイズ、無音などあらゆるアイデアが試みられた結果、現代音楽的正しさの絶対的な基準は消失してしまいました。その結果、この曲はこういう狙いでこのように作ったのだ、という作者の「大義」だけが唯一の信頼として残り、それだけによってアートとラクガキは区別されるのです。

 私はこれを理不尽とは思いませんが、悲しいと思います。この現状に立ってなお、音楽を作ったり聴いたり、それが評価されたりする営みが続けられることは、とても悲しいことです。ならば……それでも⾳楽を続けるものたちへ、祈りの言葉が必要です。

 本編曲には、私からゆおさんへ贈る⼀握の「祈り」という「大義」を込めました。その具体的手段として考えた仕組みは、以下の通りです。

1.各演奏者は自分のパート譜のみを見て、自分以外の奏者の譜面の内容は分からない状態で合奏する。

2.各パート譜はいくつかのChapterで構成されており、各ChapterはいくつかのSectionの集合になっている。Sectionは”Play Section”と”Judge Section”があり、奏者は与えられた進行指示に従って各Sectionを行き来していく。

3.Judge Sectionとは10秒程度の休⽌であり, 演奏者はこの間に”Judge”を⾏う。すなわち、自分の休⽌中に鳴っている他パートたちの演奏を聴き、それが”優れた⾳楽であるか”どうかを評価する。この評価によって、演奏の進⾏先が適宜分岐していく。

 この曲の演奏を通して演奏者たちは、⾳楽を作り同時に評価する、価値の連鎖のただなかに巻き込まれ、合奏⾃体が⼀つの「価値の化⾝(Faptoid)」として舞台に出現します。その結果として出⼒される無意味性、そして、無垢であった原曲を私が編曲してしまうことで引き起こされる必然的な⽭盾すら…あらゆる空虚に報いる「祈り」がここに実現されることを、私は信じています。

なんすい

 

4.Engine Trouble

作曲 Scott Lee (2017)

Growing up on a canal in Florida, my Dad would sometimes let me take our secondhand boat out to go fishing with friends. The engine was a bit unreliable though, and sometimes it wouldn’t start when we wanted to come back home, forcing us to pull the boat back ourselves, wading and swimming through the shallow water.

In Engine Trouble you’ll hear the motor running smoothly at first, only for something to get stuck inside causing it to lose steam. It builds up some momentum only to putter out once again, leaving one final attempt to get the motor running.

  フロリダの運河沿いで育った父は、友人たちと釣りに行くために、ときどき中古のボートに乗せてくれた。 しかし、エンジンは少し頼りなく、家に戻ろうとするとエンジンがかからないことがあり、浅瀬を泳いだりかき分けながら、自分たちでボートを引き戻さなければならなかった。

 エンジン・トラブルでは、最初はモーターがスムーズに動いているのが聞こえるだろう。 モーターは勢いを増すが、再び停止し、モーターを動かすための最後の試みが残される。

Scott Lee

 

5.Colour me pop ~偽ルナールの渋谷系博物誌

作曲 榊原拓

「ランプの光で、書きものの今日のページを綴っていると、微かな物音が聞こえてくる。書く手を休めると、物音もやむ。紙をごそごそやり始めると、また聞こえてくる。鼠が一匹、目を覚ましているのである。」
これはいうまでもなくルナールの『博物誌』の一節です。
「蛍光灯の下で、原稿用紙に向かっていると、微かな物音が聞こえてきた。ペンを止めると、その音も止まる。また書き始めると、再びゴソゴソ。彼女が目を覚ましているのだ。」
こっちは僕が書いた『毎朝配達される二本のヤクルト・ジョアのうち一本が必ずアップル味なのはヤクルトおばさんの年齢と関係あるかもしれない』という小説の一節です。
(中略)
ぼくはぼくの書いた『ヤクルトおばさん』とルナールの『博物誌』を読み比べました。そして、驚くほどよく似た箇所を発見しました。けれどぼくはぼくの『ヤクルトおばさん』を書くためには『博物誌』を読む必要さえなかったのです。ぼくはぼくの『博物誌』的変換キーを押しさえすればよかったのですから。

「なるほど」頭を垂れて、静かに私の話を聞いていたリッチーが言った。「君の言う通り、野球のことが書かれているようだ。でも、注意しなければ見過ごしてしまうような一節だね」

高橋源一郎「優雅で感傷的な日本野球」より

榊原拓

 

6.fantasma/nostalgia

作曲 榊山大亮

 

 この曲は2023年に名古屋作曲の会第7回コンサートのために書かれた。諸般の事情で一年遅れることとなった企画のために少し推敲を加え、部分改定し完成した。
 曲は弦楽四重奏のために書かれ、様々なノイズを出す特殊奏法と、日本的な節の断片、さらに任意に選ばれた和音群を並列で使いながら響きと分断を含んで、中央を頂点とした対象構造として進む。私のコロナ禍三部作のさいごの1曲となる曲である。
 コロナ禍は様々な社会的分断を生んだ。それがゆえに私にとってコロナ禍前と後とは別の世界線であるといえる。
感染症はなくならないのに、それを見なかったことにして形だけ下に戻しても、一度生まれた分断は二度と文化を、人間を元の姿には戻してはくれない。だからこそ順応と変化の違いを知り、新たな標準を作らねばならないのだ。
 この曲にはそんな文化の分断と、人間の退化の果てを追体験し、意識体だけに成り下がった人間の、あさましくも悲しい未来を文化へのレクイエムとして描いたものである。

榊山大亮

 

7.空の弦楽四重奏

作曲 なんすい

「空」という漢字はもともと「穴」の意味だった。
のちにそれが転じて「からっぽ」そして「そら」の意味が生まれた。
「穴」からどうして「そら」に転じたのか?
それは、かつて空(そら)は、私たちの頭上に広がる大きな大きな「穴」だと捉えられていたから、ということらしい。 

絶えずその色を塗り替えて、雲がうごめく、鳥の群れが泳ぐ、風船が消えていく。
空を見上げては得も言われぬ思いになるのは、そこに装飾にまみれた私の生活の全てが記録され、その行方が映写されているように感じるからではないか。
 
私たちはいつだって、変わらない空の下で生まれ、日々を思い出し、今日の睡眠を案じ、いつか死ぬことを思い出す。
その全てをなぞるように、本曲はその色を複雑に滑らかに、時に突飛に移り変わらせていくが、もはやそれらに一喜一憂する音楽でもまた在り得ない。
回り道と枝分かれを繰り返した果てに結実するのは、ぽっかりと空いたひとつなぎの「穴」に尽きるのかもしれないし、すると私たちはずっと、ただ空を見ていただけだった。

なんすい